- 2011年5月 6日 17:56test
- 自分史
8畳一間で家族5人で生活をしていました。民家園等にでてくる農家の麦藁屋根の土間付きの「田の字」の一間を借りる間借生活です。4部屋には4家族jが住んでいました。
その当時そういう生活をしていた人もいたのでしょうが、私の部落ではここだけでした。
さて私の家族以外の家庭というと住人も変わりましたが、くず屋(バタ屋ともいう)今でいう格好良く言えば廃品回収業です。その仕事をやっている家庭が2家族、後の1家族はろうそく生活の失対生活者(ニコヨンと呼ばれていた)です。父もくず屋を一時期やっていました。
その8畳は床の間でした。唯一便所がありました。他の家族はないので外にほったて小屋の便所を使っていました。縁側もありその中でも恵まれていたのでしょう。
その生活は昼間は母が練炭袋の包装をする内職をしていたので部屋中袋だらけで部屋にはいれませんでした。その後父母ともにポリエチレン袋を作る仕事をしていました。この仕事もやはり部屋中一杯になるので昼間は部屋にいられませんでした。
食事はどこにもあったちゃぶ台で食べました。父は酒は飲みませんでした。そのため酒に縁のある風景を就職するまでよく知りませでした。
寝る時は全てを片付け、ふとんは4人分しかひけませんでした。
もちろん自宅には風呂はありません。町まで歩いて20分の銭湯に1週間に1回いっていました。風呂は体をきれいにするためで入浴後の心地良さは後から知りました。
小学校に入るまでの生活は記憶がうろ覚えです。父の言葉で朝起きる時「おきろちゃ、おきろちゃ、みなおきろ、おきないとひょこさん(将校)にしかられる」といってたのを覚えています。
それと父が横になって両足を持ち上げて子供達のお腹の上をにつけることをやってくれました。うまく表現できませんがわかるでしょうか。
唯一写真館で撮った思われる1歳未満の時の裸の写真を今でも持っています。
この時代はみんな貧しくこういう生活をされていた人もいるでしょう。
私は21歳までこの家で暮らしていましが、就職するまで嫌だと思ったことはありません。
とりとめのない文章ですがその当時の風景を思い出していただけたらと思っています。
今回は外にしなければならないことがあるのでこのくらいで~。
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